英語学習理論

先哲の考えを参考に教育の意義を考えてみる

突然ですが、先哲たちが「教育とは何か、教育の意義とは」といった壮大なテーマに対してどのように思慮を巡らせたか、またそういったことを理解した上で、私自身としてこの壮大なテーマに対して現在どのように考えているか、その辺りについて纏めていこうと思います。
というのも、筆者(Kei)は現在小学校教員資格認定試験 を受験しております。
というのも、ゆくゆくは自身のキャリアの選択肢として教師になることも考えているからです。
この小学校教員資格認定試験は独立行政法人教職支援機構が管轄・運営する年に一度の試験で、大学時代に教職課程を履修しなかった人にでも、それと同等の水準を満たしていれば小学校の教員になるための免許を付与するといった内容のものです。
2019年度においては下記の日程で開催され、その中で様々な試験・実技・面接・実習が課されました。

一次試験 2019年8月31日・9月1日
二次試験 2019年10月12日・13日(※台風のためキャンセル)
三次試験 2019年11月18日・19日(※指導の実践に関する事項に係る試験)
四次試験 2019年12月22日(※二次試験に代わる「教科及び教職に関する専門性」等を評価する措置)

※後日談ですが、筆者は2020年1月22日に四次試験までを踏まえた合格通知をいただき、晴れて小学校教員免許二種の資格を取得しました。

一次試験は2日間に渡り、教職教養という科目に加え、一般10教科の中から6教科を選んで合計7教科の筆記テストに臨んだわけですが、今回 教職教養を事前に勉強していた際、教育や発達、学習の理論について先哲の様々な考え方を学ぶことになり、それに対して大変興味を持つことになりました。
よって、今回のブログでは、先哲たちが「教育とは何か、教育の意義とは」といった壮大なテーマに対してどのように思慮を巡らせたか、またそういったことを理解した上で、私自身としてこの壮大なテーマに対して現在どのように考えているか、その辺りについて纏めていこうと思います。

<教育の意義 そもそも教育とは何か>

このようなテーマは時代の変遷と共に変わっていきます。
つまりは、時系列としてひとまず紀元前9~8世紀頃から栄えた古代ギリシャの時代の教育を出発点とし、その後中世、近世、近代、現代と変遷するに連れて、教育の意義もその時代の社会背景・要請に合わせて少しづつ変わってきて、その延長として「現代」があります。
私たちは「現代」という時代を今現在生きておりますが、この「現代」の教育やその意義は、その一つ前の「近代」の教育から大きく影響を受けているので、今回のブログではそこら辺くらいから少し掘り下げて考えていきます。

<近代の教育 子ども中心の教育なのか、教授中心の教育なのか>

「中世」の時代に主流であったキリスト教の権威に根拠を求める教育感が、その後の「近世」「近代」の前半を通して、人間中心・人間の理性による事物認識を拠り所とする教育観に変わり、18世紀に入り「近代」は後半を迎えると、その教育観は「啓蒙思想」というカテゴリーとして括られ、より発展を見ることになります。
この時代の有名な思想家は下記に挙げるような方たちです。

ルソー(1712~1778) フランス
その著書『エミール』という教育論の冒頭で、「万物は造物主の手を離れるときは、全てが善いものであるが、人間の手にかかると、それらがみな例外なく悪いものになっていく」と性善説を基盤とするこの書き出しを用い一躍有名になりましたが、彼の教育論は後に「消極教育」や「自然主義」と形容されるように、子どもの人格や自由を尊重する立場にたち、子どもの心身の発達に応じた教育を行うべきであると主張しました。
つまりは逆に言うと、先生や教師と言われる者たちが、子供のそういった自然的な感覚や、個々人の感性などを軽視して、画一的なカリキュラムによる一斉教授を行うべきではないということを主張しているわけです。
このような考えは後にエレン・ケイ(1849~1926) スウェーデンにも引き継がれ、彼女はその著書『児童の世紀』の中で「教育の最大の秘訣は、教育しないことにある」と逆説的に断言し、20世紀は子どもが自由に創造的に生きる時代になるであろうと予言しました。

カント(1724~1804) ドイツ
ルソーの影響を強く受けたとされるカントも同じ啓蒙思想家にカテゴリーされる思想家の一人なのですが、ルソーとは少し違った観点で子供と教育の関係性を考察しています。
その著書『教育学(講義)』の中で「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」「人間は教育によってはじめて人間になることができる」といった具合に、人間(子供)が、他の動物とは違う理性的な人格をもった人間(大人)になるために、教育で以て導いていくことの重要性を認めており、カントは特に道徳教育を重視しました。
これは私の解釈ですが、カントは人間(子ども)は教育によって矯正されるべきものと主張し、消極教育の立場を取るルソーと比較すると、教育を与えるということに対してより重きをおいているようにみえます。

ヘルバルト(1776~1841) ドイツ
カントと同じくドイツ人の啓蒙思想家であるヘルバルトは、確立したカリキュラムと教授方法によって教育を施すことが重要と考え、これまでの経験的な教育論を、学習プロセスの観点で体系化することに貢献しました。
その著書『一般教育学』の中で「私は、教授のない教育などというものの存在を認めないし、また逆に、教育しないいかなる教授も認めない」と言っているわけですが、直観や経験で教えるのではなく、体系的な方法で教えることを重要とし、その中で学校や教師が中心的役割を果たすとしました。
このヘルバルトの教授方法は後に明治時代以降の日本にも導入され、今も強くその影響を残しております。

このように、冒頭で掲げた『子ども中心の教育なのか、教授中心の教育なのか』というテーマを考える上で対照的に考察するため、今回上記4人の思想家(ルソー/エレン・ケイ/カント/ヘルバルト)を取り挙げましたが、様々な考え方・見方・アプローチし方があり、このような壮大なテーマの場合、必ずしも誰が正しいといった議論にはならないという風に私は理解しました。
また、最後に彼らはその時代を生きた数多いる思想家の一部に過ぎないということも補足させていただきます。

<現代の教育論について>

いつの時代も(今の時代もですが)、その時代を生きた多くの人が教育やその意義について、その時代の背景や抱えている問題との関係性の中で、あれやこれやと考察をしております。
当の日本でも、義務教育である小・中学校の教育課程を大綱的に定めている学習指導要領というものは、昭和22年に初めて公布されたのを皮切りに、その後約10年のインターバルで改訂されては施行されるということを繰り返して今に至っております。
今回のテーマ(子ども中心の教育なのか、教授中心の教育なのか)に関連する改訂でいうと、生徒の自発的な学びを大切にするという社会風潮が強まれば所謂「ゆとり教育」という方向に舵が切られ、国際的な学力比較で競争力が落ち込んできた場合には、「ゆとり教育」とは逆の方向で教科をしっかりと指導するという方向に舵が切られるということを日本も幾度と経験をしてきております。
このように近代の後半で啓蒙思想家たちによって議論されていたこの種のテーマは、現代の今でも、ここ日本においても、引き続き教育者たちの永遠のテーマとなっているのだと思います。
直近の日本の教育に関する大きな幹としてのテーマを上げる下記のようなものがあります。

・アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)
・どのように社会・世界と関わり、より良い人生を送るか
・地域に開かれた教育課程
・我が国や郷土の伝統や文化を愛好・尊重する教育の充実
・言語活動(国語・外国語)の充実
・道徳教育の重点化・教科化
・理数教育の充実化、プログラミング教育の導入

非常に盛沢山ですね(笑)。近代以降語られてきたテーマと似たものもあれば、現代特有・日本特有のテーマもあり、教育環境を整えるとは、このように常に時代の要請に合わせて、よりベストなものを選んでいく作業という風に言い換えることができます。

<纏めと筆者の考え>

これまで主に近代以降に焦点を当てて、教育に関する最も重要なテーマであるその意義について当時を生きた思想家たちがどのように考えてきたかを簡単に紹介し、またそれは今現在の「現代」においても引き続き共通のテーマとして常に考察の対象となっているということを押さえました。
これらを踏まえて私が思うことは、例えば下記のようなことです。

・例えば、「子ども中心の教育なのか、教授中心の教育なのか」といったこの種のテーマに関しては、シンプルにどちらも大切にした教育を行うべきであると思います。
というのも、子供は子供らしくその学齢の段階・個々人の発達に応じたペースで学んでいく必要があり、一方で教師たるものは教育という崇高な使命を強く重んじ、中長期的な制度設計の中で体系的に指導をしていく必要があり、この二つはどちらも同様に明白に明らかと思えるからです。
従って、バランスを取って両立させていくというよりかは、どちらの軸も最大限発揮させて両立をさせていくといった考えが筆者の考えに最も近いです。
・教育の意義は時代の要請や社会的背景に大きく影響を受けるため、言い換えればこの「時代の要請」や「社会的背景」を教育制度の設計者が穿った見方、打算的な見方、短期的な見方で捉えてしまう場合に、教育現場には大きなしわ寄せ・ストレスが生じてしまうことになります。
従い、教育制度を設計する者たち(国)が決してやってはいけないことは、教育の恩恵を受ける子供たちや、実際に教育現場に立つ教師達の立場を軽視し、ただ単に「時代の要請」のみを踏まえて制度設計を行うことであります。

今回のブログはここでお終いにしようと思いますが、次回のブログでは、例えば運動神経を伸ばすことや、第二言語を習得する能力は学習(=環境)に影響を受けるのか、或いは先天的な遺伝により依存するのかについて、教育関係者たちの先行研究成果を参考にしながら考えていきたいと思います。是非お楽しみに。

Have a nice day with your beloved family and friends,
Sincerely,
Kei

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中