最初に、本日のブログの目的としては、下記#1/#2の英文法の問題を通じて、日本の高校段階における英語教育の在り方を、国際的な文脈で考えるきっかけを提供することです。少し硬派なテーマに聞こえるかもしれませんが、順を追って、整理しながら、色々な観点で考えることに撤し、その結果どうかこのテーマについて皆さんの意見などもお聞かせいただければと存じます。自身の現在の考えも暫定的にお伝えさせていただきますが、今後ここら辺の事情について、自身の最大関心事として、もっと調査・研究・考察をしていきたいと考えておりますので、この点予めご了承ください。。それでは早速始めていきましょう。
今回のブログの核心に入る前に、まず皆さんに下記#1 / #2を解いてみてもらいたいと思います。
#1 I ( ) in China for three years when I was a child,
but I can’t speak Chinese at all.
① have been
② have once stayed
③ lived
④ had lived
#1の答えは、③のようです。“ようです”とお伝えしているのは、これはあくまでも、この発問者の狙うところの解答としてはそうであるということを、私が兎に角強調したい為で、それ以上でもそれ以下でもございません。
#2 I ( ) in China for three years when the war broke out(*broke outは勃発したの意味).
but I can’t speak Chinese at all.
① have been
② have once stayed
③ lived
④ had lived
#2の答えは、④のようです。“ようです“とお伝えしているのは、上記と同じ意図です。皆さん、#1と#2の解答が違う“ようである”という点について、ロジックとして納得していますでしょうか。また、この辺りの細かい使い分けについて、国際的な文脈で考察した際に、どのような発見があるか。つまりネイティブの人々はどのような頭の回転で整理して捉えるか、ヨーロッパやアジアなどのノンネイティブで英語を第二言語で学ぶ人々はどのように受け止めるか、そういったことを少しだけ紹介させていただくことで、今後の日本の高校英語教育の在り方を考える”きっかけ”にしたいと存じます。
まず、何故このような観点でブログを書こうと思った”きっかけ”からスタートさせていただきます。私はこの4月からある通信制大学に三年次編入という形で入学し、英語と数学の高校教諭免許を習得するべく、学習を開始しております。実は、今年の1月に小学校教員免許(二種)という資格を取得し、現在小学校の教員になることは資格上可能なのですが、英語教育というものを小学校から中学校→高校という一連の過程で捉えて、自分としてその最適な在り方を社会に提起していきたいと志し、次は、中高の教諭資格を取得してみようとなりました。
通信大学の、高校生の文法範囲を学習対象にした「上級文法英語」という履修科目があるのですが、その授業の指定テキストの桐原書店「全解説頻出英文法・語法 問題1000」で、要は実際に各大学の入学試験やセンター試験で出題された問題を1000個集めています。その中の第33問目に上記#1の問題が収録されており、出典はセンター試験となっています。#1の問題に戻りますが、私は、for three yearsという期間を表す副詞句があったので、これは所謂過去完了の「継続・完了・経験」の「継続」の用法であると早合点し、それ以外は特にあまり深く考えずに、最初④had livedと解答し、その後の答え合わせの中で、「正しい」解答はシンプルに③livedであると知りました。その後すぐにその問題の解説を読んで、その解説の中で#2の形でWhen以降で表される副詞節がthe war broke outとなっていれば、私が当初選んだ④が「正しい」となっており、その違いを説明する解説文を読んで最初はとても納得をしました。しかし、その後自身の経験と照らし合わせたり、複数人の外国の友人にヒアリングを行ったところ、今では、この③livedなのか④had livedなのかに拘るという現状の日本の英語教育は、果たしてこれからもそうであるべきなのだろうか、と感じるようになりました。
まずは、解説文をそのまま引用することで、何故When以降の副詞節が#1のwhen I was a childの場合は③livedを選び、#2のwhen the war broke outの場合は④had livedを選ぶべきなのか、その論理を以下桐原書店同テキストの該当箇所からそのまま引用する形で説明をします。
〇引用開始〇
過去のある期間にわたる状態を表す場合、状態動詞の過去時制を用いる。liveは瞬間的な動作ではなく、「ある一定の期間生活する」といった継続的な状態を表す動詞。したがって、本問は「子どものころの3年間という過去の一定期間中国に暮らした」のだから③livedが入る。
for three yearsという期間を表す副詞句があるからといって④had livedにしないこと。When I was a childは、「子どものころ」という過去の一定の期間を表す。このように漠然とした時間の幅をもつ副詞節は、過去完了の基点にはならない。この副詞節がwhen the war broke out「戦争が勃発したとき」など過去の一時点を表す場合には、過去完了の基点とすることができるので、④had livedが使われる。
〇引用終わり〇
これは私にとってまさに納得のいく説明で、「for three yearsだけで早合点するべきでなかった」、「時を表す副詞節が基点となるかならないかが、過去完了の「継続」用法の成立条件であることを失念していた」、更には、「動詞の性質として、“状態”を表すものと、“動作”を表すものの2つがあり、その2つには、例えば“状態”を表すものはその性質上進行形で使われることが稀であるなどの用法上での違いがあり、つまり今回の#1では、liveは“状態”動詞であるので、「3年間住んでいました」という状態を表現するには、確かにシンプルにlivedで良いはずである」などの貴重な振り返りをすることができました。しかし、次の瞬間、もう一つの別の感慨に襲われました。それらは、例えば、「(この種のロジカルな解説を心地よいと感じてしまう自分を受けて)何故自分は英語をこういった風に技巧的に考えることに慣れてしまっているのか?」や「そもそもここまでのトリッキーな問題を、第二言語である英語という教科で問う必要があるか(それは母国語の国語で行えばよいのでは)」、「この種のトリッキーな問題を受験者の第一関門である国のセンター試験で出すべきなのか?(つまりは国がここら辺のトリックさを大切だと感じている!?)」、「こういったことよりも、例えばオーラルコミュニケーションや、リスニング、英作文などのもっとフォーカスすべき英語領域があるのではないか」みたいな感慨です。こういった感慨をもとに、自身でひとまず結論を出すことを保留して、私はこの種の問題が外国人の方にどう受け止められるかヒアリングを行ってみました。
アメリカ人2人(40代と20代)
フランス人1人(30代)
カナダ人1人(30代)
台湾人1人(30代)
中国人1人(30代)
まず最も印象的だったのはアメリカ人の反応です。どちらも日米ハーフですが、生まれも育ちもアメリカで、その二人とも、「今までの人生でhad livedという表現を使ったことがない、また他人が使うことをほとんど聞いたことがない。」といった理由で、正しい解答を答えるのであれば③livedをあげてきました。その内一人は「オーラルな感じで言えば、①③④であれば、どれも違和感なく、話が通る」といった感じでした。日本語の試験で#1と#2では回答が変わってくることをそのロジックと共にお伝えすると、「そう言われれば確かにmake senseではある。」と言われたものの、「日本人は文法などを気にしすぎで、もっと気楽な感じで英語を捉えてみたら」と逆にアドバイスをされる始末でした。私として所謂時制の一致という、割とどの文法にも当てはまる大原則がある故、可能性がある解答群としては③④という風に絞り込めると考えていましたが、この度ネイティブのアメリカ人が①でも全く違和感なく通じると返してきたことには少し驚き、それ故その友人がアドバイスしてきた「日本人はもっとリラックスして英語を捉えるべき」がより印象強く突き刺さりました。私が④had livedは過去完了形で、③livedは過去形であるといった具合に、自制の違いを日本で教わったようにして言わんものなら、どちらも過去形だと返してくる感じで、「そこにニュアンス的な大差はそこまでないだろう。ただ勿論、文法的にはきっとそういった違いがあるのだろうけど、日常の会話ではあまり気にしない」といった感じでした。
イタリアとフランスのハーフで、フランスで過ごしてきたフランスの友人は、#1#2の解答に違いがあるということに対して特に意図が掴めなかったようで、どちらも③④の解答がなり得ると返してきました。#1は③で、#2は④が設問者の意図するところであるとそのロジックと共に説明をすると、「make sense」と返ってくるものの、「自分は英語ネイティブではないのでそこまでわからない」とあっさりと謙虚に認める感じでした。ちなみに、その友人のキャリアは誰もが知っている国際的に有名な外資系コンサルティングファーム、外資系投資銀行を渡り歩いているキャリアを持つ方です。
12歳まではロシアで、その後カナダに移り、現在はカナダの市民権を持っている友人に同じ質問をしたところ、彼は#1に対しては④、#2に対しては③と、本来の解答とは逆の形で解答してきました。但し、③④に大きな違いはなく、どちらも解答にもなり得る、といった見解も示してきました。ちなみに、彼に何故最初の解答はそうであったのかを尋ねたところ、彼はこれまでの口語的な経験の中で自分が話したり、他人が言うことを聞いてきたりする中で、「しっくりと来る」かどうかという感覚が備わってきているので、そういった感覚を基に解答したと言っておりました。つまり何か文法的な根拠があって、#1に対しては④、#2に対しては③を選んだわけでないということでした。
大学(学士)まで台湾で過ごし、大学院(修士・博士)からアメリカの大学に渡った台湾人の友人はどちらの問題に対しても③livedを選んできました。#2は実は④であることを伝えると、「④のhad livedは今までの人生で一度も使ったことがないから、選ばなかったとし、それではあればまだ②のhave once stayedの方がしっくりくる」といった感じでした。彼はちなみに、日常会話などの英語はそこまで流暢でないと、彼と話していて、失礼ですが、私はそのように感じます。ただ、薬剤関係の分野では最高峰のコロンビア大学で博士課程まで修了しており、それこそその分野の英語表現や論文の執筆、同僚との研究上の会話・コミュニケーションは全く問題がなかったはずでしょう。
中国で高校までを過ごし、その後大学から大学院まで海外で過ごした中国人の友人は、設問者の意図通りの理解で、正しい解答を返してきました。彼女に学生時代「やはり英語に関しては何よりにも増して時間を割いたのか?」と聞いたところ、「確かに私は英語において成績は良かったけど、他の生徒と比較してとりわけ英語を重視していたわけではないよ。高校のカリキュラムに沿って学んだだけだよ。」といった答えが返ってきました。最初こそこの答えは意外でしたが、中国の国民性を鑑みると、「それはそうなんだろう」とすぐに自分なりの合点がいきました。私は中国の上海に2年間住んでいた経験があり、当時は中国語を使って仕事をしていたのですが、中国人は「体裁やメンツ」といったもの日本人以上に気にする国民性があり、生半可な知識で間違って英語を発言するくらいだったら、発言をしない方が美徳と見る傾向があるのだと思います。したがって、日本と同じように英語学習のカリキュラム設計においては文法偏重であるのかもしれません。(ちゃんと調べていない、あくまでも仮定の話です。)
そんな中国人の彼女に上記アメリカ人のフィードバックである「あまり形式ばらずリラックスして臨みなよ」の話をしたところ、「母国語の場合は、そこまで意識して文法を捉えないのではないか。中国人でいう中国語もそういったきらいがある。」と示唆に富んだ答えを返してきました。これを聞いて私が思ったことは、この傾向は日本における日本語でも合点のいくところがあるということです。例えば、所謂2チャンネルで使われているオタクの人たちの言葉は、正統派の国語の文法とは違ったところで、辞書には載っていない言葉もふんだんに使われています。選挙演説中の候補者が、その情熱のあまり、一文一文が長くなってしまった場合、主語、動詞、接続詞などが何層にも入り混じったりして、文章に文字化した場合にきっと文法的には説明ができない語りを繰り広げていると存じます。でも、私たちはそれをそこまで違和感をもって受け止めることはないでしょう。逆に文法が100%教科書通りでも、発音が標準から少し外れているとすぐに違和感を感じるのではないでしょうか。つまり、中国人の彼女が言った、「母国語が故にネイティブとしては、オーラルコミュニケーションにおける文法に関して、そこまで気にならなくなる」というのは一理有りそうです。
さて、以上の検討材料から、私の現時点での、今後の高校英語の目指すべき方向性、といったテーマに対して暫定的な結論をお伝えすると、上記のアメリカ人がアドバイスしたように、文法習熟に関しては少し温度を下げて、もっとオーラルコミュニケーション(ひいては、リスニングの強化)に移るべきだと思います。その理由は上記までの内容で、もうお分かりだと思うので、敢えてもう言いませんが、最後に付け足すとすると、自身が所謂文法偏重の英語教育を受けたが故に、その後大変苦労をしたという話(Phonicsの習得が遅れたために自身が苦労した話)をまず挙げさせていただきます。また、次の観点として、中学校まで英語が楽しく、それなりにテストでも良い成績が取れていたのに、高校に入ってからは、あまりにも文法を“深堀り”に指導された為に、やはり“楽しい英語“というよりかは、”ルールが多い堅苦しい英語“という感じになってしまい、テストでもやはり「×」を採点されることが多くなったので、英語に対する自信を無くしていったのは事実です。また、その後大学生になって実際に英語を話すという状況になっても、「正しい文法で話さないといけない」という強迫観念に襲われたんだと思います。それこそ、上述の③livedなのか、④had livedなのか、どっちを使うべきかを頭の片隅でフル回転しながら、目の前の相手と話すわけですから、相手にはきっと「何故この人はリアルのコミュニケーションをシンプルに捉えることをしないで、自分の中だけで頭をぐるぐる回しているの?」と思われていたのだと思います。もっと端的に言えば、かのアメリカ人が「私はhad livedを口語的に今まで一度も使ったことがない。」と言ったことに対して、英語を第二言語とする日本人である私はその「had lived」は恐らく悠に20~30回以上は口語的に使っていると思います。(汗)
以上になりますが、皆さんは今回のブログの内容に関して如何思われましたでしょうか?私はこのテーマは考慮するにとても意味があると思っており、日本として今後国際社会でますます存在感を強めていくためにも、避けては通れないテーマだと思っています。是非皆さんの意見を聞かせてください。
Have a nice day with your beloved family and friends,
Sincerely,
Mr. K